『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教
- 著者:松崎 智海
- 出版:PHPエディターズ・グループ
- 発行:2021年6月3日
- 価格:1330円+税
- 頁数:222ページ
- 評者:宮村 凌
スピリチュアルブログ版ダイジェスト
本書は、浄土真宗本願寺派永明寺住職の松崎智海氏が、仏教の教えと『鬼滅の刃』に通ずるものを見出し「『鬼滅の刃』をきっかけに仏教を知ってもらえれば」という思いから執筆した著書です。仏教と『鬼滅の刃』には、想いや設定、ストーリーにおいても仏教の要素が多く含まれていることがわかります。
※本書には最終話までのネタバレを含んでいます。
<<仏教の「煩悩」と鬼滅の刃の「鬼」>>
仏教の目的は「仏に成る」ことであり、そのためには「煩悩」を滅する必要があります。一方、『鬼滅の刃』では、鬼を滅することが目的です。まず、ここに仏教と鬼滅の刃の大きな共通点を見つけることができるのです。
「煩悩」=「鬼」という見方こそ、『鬼滅の刃』の仏教的理解を深める根本的な考え方であり、炭治郎たち鬼殺隊は「鬼」という人間の内なる「煩悩」と戦う私たちと重なります。
さて、仏教では、あらゆるものは変化している「諸行無常」と、あらゆるものに不変の実態は無いという「諸法無我」の考え方が基本にあります。しかし、私たち人間は「自分が何ものであるか」を求め、「これが私だ!」という変わらない私に執着してしまうのです。このように執着してしまうことを「我執」と言います。
では、『鬼滅の刃』において「鬼=煩悩」だと裏付けるものとはなんでしょうか。それは、鬼の始祖である鬼舞辻無惨です。鬼舞辻無惨が求めるものは「我執」なのです。
<<煩悩の原因である「我執」と鬼舞辻無惨の「心」>>
仏教において、「我執」は「煩悩」を引き起こす原因です。自分自身には不変の実態があるという「我」の意識は勘違いであることを教えているのです。
『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨は、仏教の観点から述べるならば「我執」の塊です。事実、作中でも「私が嫌いなものは“変化”だ 状況の変化 肉体の変化 感情の変化 凡ゆる変化は殆どの場合“劣化”だ 衰えなのだ」と言い、「私が好きなものは“不変”」だと言っています。つまり、鬼舞辻無惨は不変の存在である「我」を手に入れることに執着している存在であり、「煩悩」を引き起こす最大の原因だということです。
仏教では「我執」が「煩悩」を生みます。そして、『鬼滅の刃』では「鬼舞辻無惨」が「鬼」を生む。ここに「煩悩=鬼」という公式ができあがります。
<<煩悩を滅し苦悩から救う「仏教」と『鬼滅の刃』>>
上述のように、『鬼滅の刃』には仏教との多くの共通点を見つけ出すことができます。その根本となるのが「煩悩」であり「鬼」なのです。
炭治郎たちは「鬼」を生み出す原因である鬼舞辻無惨を倒すことで、苦悩から開放されます。また、私たちは「煩悩」を生み出す「我執」をなくすことで、苦悩から開放されるのです。
私たちは『鬼滅の刃』を通して、私たちの心の奥に潜む煩悩と鬼を重ねて見ているのではないでしょうか。そして、炭治郎たちの戦いに私たちを投影しているのではないでしょうか。
『鬼滅の刃』と仏教の教えを重ねることで、私たちは仏教の本質を知るきっかけを手に入れることができるのかもしれません。
目次
- はじめに
- 目的 「滅」始まりの呼吸の剣士の刀に刻まれた一文字
- 四諦 「残酷」物語はここから始まった
- 我執 「私が嫌いなものは“変化”だ」鬼舞辻無惨が求めるもの、それは不変
- 釈尊1 「刃」最強の剣士・継国縁壱が生まれた理由
- 釈尊2 「縁」世代を超えてつながる想い
- 唯識 「悪夢」眠り鬼・魘夢
- 浄土教 「佗」悲鳴嶼行冥
- 埋葬 「弔い」産屋敷耀哉の心を支えた命のつながり
- 二河白道 「日本一慈しい鬼退治」刀を手放して辿りついた鬼のいない世界
- おわりに
一言コメント
仏教の教えを通して見ることで『鬼滅の刃』の物語の深さや、なぜこれほどまでに人気があるのかを理解できます。心に残っている『鬼滅の刃』のシーンを思い返しながら、仏教の教えを重ねると「ハッ」とさせられ鳥肌が立つ人もいるでしょう。本書は、『鬼滅の刃』の深みを実感するとともに、仏教にも興味を持てる一冊です。
注目の文章ピックアップ
・その目的はたった一言。「仏に成る」ということです。
・よく、成仏というと死ぬことだと思われていますが、それは違います。「仏に成る」ことを成仏というのです。
・それは、仏教も『鬼滅の刃』も、ともに「滅」することをテーマとしているという点です。
・この「鬼」=「煩悩」という見方が、『鬼滅の刃』の仏教的理解の根本的な考えになります。
・私たちの世界は「思い通りにならないことだらけだ」というのが仏教の出発点なのです。
・「思い通りにならない」世界を、「思い通りにしようとする心」が煩悩です。
・仏の教えは「苦」からスタートします。
・そして、同じように『鬼滅の刃』も「苦」から始まります。
・『鬼滅の刃』の第1話は、仏教の四諦の教えそのままなのです。
・仏教では「我執」は「煩悩」を生み、『鬼滅の刃』では「無惨」は「鬼」を生みます。
・『鬼滅の刃』を仏教的な視点から読みますと、この縁壱は「お釈迦様」に見えてきます。
・経典とは呪文や不思議な言葉が書かれたものではなく、お釈迦様が弟子たちに教を伝えた言行録なのです。
・魘夢が見せる心の仕組みは、仏教が考える心の仕組みをもとにしているのではないかと思えるほどです。
・この物語で救われるのは炭治郎であり、無惨であり、それを読む私たちなのです。